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東京家庭裁判所 昭和59年(家)3622号 審判

申立人 陳亜東

申立人代理人弁護士 河合弘之

同上 西村国彦

同上 堀裕一

申立人復代理人弁護士 青木秀茂

同上 安田修

主文

申立人が次のとおり就籍することを許可する。

本籍 東京都千代田区麹町五丁目七番地

氏名 東山秀男

生年月日 昭和一九年三月一九日

父母の氏名 不詳

父母との続柄 男

理由

第一申立の趣旨及び実情

申立人は主文同旨の審判を求め、申立ての実情として次のとおり述べた。

1  申立人は、昭和一九年(一九四四年)旧暦二月二五日旧満州において日本人を父母として出生し、昭和二一年春ころ新京市東三道街二番地の陳秀文宅で母親から中国人養父母陳秀文・陳劉氏に預けられ、同人らにより養育されてきた、いわゆる中国残留日本人孤児である。

2  申立人は日本国民たる父及び母の子であり、申立人が日本国籍を有することは、以下の事実及び資料から明らかである。

(1)  中国人養父母に預けられた状況

申立人は、昭和二一年(一九四六年)春ころ、上記陳秀文宅において、中国人養父の妹の夫であった王丙全の紹介により、日本人である母親から養父母に預けられたものである。養父母は結婚後子宝に恵まれず、何度か子供を貰いうけようとして果たせず、上記王丙全に養子縁組のあっせん方を依頼していた。当時申立人の実父は、ソヴィエト軍により連行されて強制労働に就かされ生死不明の状態にあったとのことである。

申立人の生母は、養父母に申立人を預けたあと、同年六月か七月ころ、二度ばかり、申立人に会いに来ており、その際生母においては、実父は帰還したが、申立人を陳秀文夫婦に預けたことはまだ話していない、生父母一家は同年八月帰国の予定であるが、郷里の長崎には原子爆弾の投下があったので、家がどうなっているか不明である、などと語っていた。これ以後生母から申立人らへの連絡はと絶えてしまった。

(2)  中国における日本人孤児としての扱い

申立人は中国において一貫して日本人孤児としての扱いを受けてきた。申立人が日本人孤児であることは居住地においては公知の事実である。

(3)  孤児証明書の存在

中国政府は、慎重かつ厳格に調査した結果、申立人を日本人孤児であると認定し、その旨の証明書を発行している。

(4)  孤児名簿への登載

申立人は、昭和五八年三月厚生省援護局が作成した「肉親捜しの手がかりを求めている中国残留日本人孤児」(いわゆる孤児名簿)に登載されている。孤児名簿には、中国政府のみならず日本政府においても、日本人孤児であることが間違いないと判断された者だけが登載されるものである。孤児名簿への登載という事実は、申立人が日本人孤児であることを極めて有力に裏付けるものである。

3  昭和一九年(一九四四年)当時の国籍法によれば、子が日本国籍を取得するためには、出生の時父が日本人であるか、父が知れないときは母が日本人であることを要し、父母が共に知れないときは日本において生まれたものであることが要件であった。本件では、申立人の父母についてはいずれもその氏名、本籍等を明らかにできないが、申立人の父母はいずれも日本から中国に渡った日本人であり、その父が法律上の父か否かはともかく、少なくとも母が日本人であったことは疑いないから、申立人は出生により日本国籍を取得したものである。

4  よって、申立ての趣旨記載のとおり就籍許可の審判を求める。

第二当裁判所の判断

1  本件記録中の各資料及び申立人代理人弁護士安田修審問の結果によれば、以下の事実を認めることができる。

(1)  申立人を育てあげた亡陳秀文(一九一六年生れ、一九七八年死亡)、亡陳劉氏(一九二〇年生れ、一九七一年死亡)夫婦は、陳劉氏が病身であったりしたため、実子を儲けることに大きな期待を懐くわけにいかなかったことから、子供を貰って後継者として育てあげようと考え、夫婦は、しかるべき子供をさがしたが、なかなか話がまとまらなかった。第二次世界戦争が終ると、陳夫婦の居住する長春市(当時新京市)に、北方から多くの日本人・日本軍関係者がのがれてきた。陳夫婦は、自分たちのあとつぎとして日本人の子供を貰って養育することを考え始め、陳秀文の妹の夫である亡王丙全などにそのような意向をもらしていた。

(2)  昭和二一年(一九四六年)春、上記王丙全は、申立人を抱いた年令三〇歳くらいの女性を連れ、陳夫婦の住む長春市東三道街二番地にやって来た。上記婦人は日本語を話し、通訳が必要であったが、そのころ日本女性が常時身につけていた短い上衣に足首のところがちぢんだズボンをはいた「モンペ」姿で、自分たちのことを、夫は軍人であり、ソヴィエト軍にとらえられ、消息不明になっている。自分は子供たちと長春市まで逃げてきたが、上の女の子のほか申立人まで連れて生活して行くことが無理な状況になってきた。申立人は二度目の誕生日をむかえたばかりである、などと話し、陳夫妻の住居をみて、安心したような態度を示しているように同席の人々は受取った。そしてこの婦人は陳夫婦と、申立人を委ね育ててもらうことを合意し、申立人を残し、立ち去った。

(3)  その後申立人を陳夫婦の手に託したこの婦人は、二度にわたり、陳夫婦方を訪れている。そして同女は、陳夫婦との話のなかで、自分は三人の子を儲け、申立人は二番目の子になるが、末の男の子は死亡してしまった。長子は申立人より二歳上であるなどと、眠りこんでいる申立人をみながら語ったりした。最後の来訪も、同じ年の夏であった。同女は、夫がもどってきて帰国することになった、申立人のことは夫には話しておらず、弟と同様死亡したと言っている、帰国してまず郷里の長崎に行くことにするが、原子爆弾の投下があったので家がどうなっているか判らない、と語り、名残り惜しそうに頭をさげて出ていった。

(4)  このような申立人をうけいれたいきさつについては、その当時陳秀文と同じ勤務先をもっていた呉振中、あるいは張殿元といった、なお健在な人たちが、通訳をたのまれたり、意見をきかれたりし、上記婦人の三度にわたる陳夫婦方への来訪の際少くともいずれかの機会に同席しており、同女の話が上記のようなものであったことを、記憶しており、なお、呉振中は、その女性は非常に礼儀正しく、終始うつむきかげんでほとんど頭をあげない人であった、と申述しもするが、その名は明らかにすることができない。

(5)  その後の上記女性の消息は不明である。その後申立人は陳夫婦の実子のごとく養育され、国共戦争のため吉林省内で三度ほど住居を移し、昭和三一年(一九五六年)ふたたび長春市にもどり、申立人は同市の工業学校を卒業して市内の機械工場で働き、同市工業局の職員となるに至っている。昭和四六年四月劉桂芳と婚姻し二人の女の子が出生している。

(6)  申立人について、中華人民共和国の常住人口登記表には一九四四年二月二五日生で戸主と記されている。また申立人には吉林省長春市公証処公証員発行の孤児証明書が存するが、それには申立人は昭和二一年(一九四六年)五月陳秀文が吉林省長春市において貰いうけた一九四四年(昭和一九年)旧暦二月二五日生の日本血統の孤児であることを証明するとの記載がある。

(7)  申立人は昭和五一年(一九七六年)ころから、肉親捜しをはじめ、昭和五六年(一九八一年)一月北京市に出て来て、訪日のための往復旅費の申請手続をとるなどしたあと、同年三月中華人民共和国発行の護照により来日し、肉親捜しをしたが、両親・姉など親族に面会することはできず、中国にもどり、その後もその手掛りをつかめないでいる。

2  以上の事実に基づき、本件申立ての当否につき検討する。

(1)  就籍を許可するためには申立人が日本国籍を取得していることが必要である。そして旧国籍法(明治三二年法律第六六号)によれば、子が日本国籍を取得する要件としては出生の時父が日本人であるか、父が知れないときは母が日本人であることを要するとされ、しかも、同法にいう父母の概念は、法律上のものをいうとされているのである。

ところで、上記認定事実によれば、申立人の父母が婚姻していたか、婚姻していないとすれば父から胎児認知がされていたかという点につきこれを確定することはできず、したがって、申立人が日本人を法律上の父として出生したということはできないが、上記中国人養父母に預けられた当時の状況及び孤児証明書が発行されていることから少なくとも母が日本人であることは認められるから、申立人は出生によって日本国籍を取得したものというべきである。

(2)  次に、このように出生によって日本国籍を取得した申立人が、その後日本国籍を喪失していないかについて検討する。昭和二五年七月一日から施行された現行国籍法(昭和二五年法律第一四七号)によれば、出生等により日本国籍を取得した者も、その後自己の志望により外国籍を取得した場合には日本国籍を失うものとされる。

申立人は、護照により日本国へ入国しているが、護照の発行対象者は中国人に限られているから、申立人が中国籍を取得していることは明らかである。

ところで、中華人民共和国の国籍法規に関しては、昭和五五年の成文法規制定以前の慣習法の全容が明らかでなく、申立人の中国籍取得がどのような事由に基づくのか明確にし得ないが、上記制定法施行前においても、中国籍の取得を希望する外国人からの申請による中国籍の取得が認められ、同申請によって中国籍を取得した者には中華人民共和国許可入籍証書が発給されていたことが認められる。しかしながら、上記認定事実によれば、申立人はこれまで中華人民共和国許可入籍証書を取得した事実はなく、したがって、自らの意思により同国籍取得の申請をしたとは認められない。むしろ、申立人は幼少時から中国人である陳秀文・陳劉氏夫婦の実子として養育されてきたことにより、上記のような申請をすることなく中国人として処遇されてきているものと認めることができる。

したがって、申立人は何らかの事由により中国籍を取得したものと認められるものの、それが自己の志望に基づくものということはできず、したがって、日本国籍を喪失しているとは認められない。

(3)  申立人は、昭和五一年以来、日本人の肉親捜しの努力を重ねてきたが、未だにその身元が判明せず、本籍は不明であると言わざるを得ない。したがって、申立人は、日本国籍を有しながら、本籍の有無が明らかでないことになるから、そこで、申立人代理人に、かつて来日の際北京市に予め出頭し作成した旅費の申請書上の署名押印と同一性が総合認定できる、署名押印をもって作成した委任状によって申立方を委任し、なされた本件申立をいれ、就籍を許可すべきである。

そこで、就籍事項につき検討するに、本籍及び氏名については、申立人の希望するところを不相当とする理由はないから、申立ての趣旨のとおり許可することとし、生年月日については、上記認定事実から旧暦の誕生日を太陽暦のそれに改め昭和一九年三月一九日とする。また、父母の氏名及び父母との続柄は明らかではないから、父母の氏名は不詳、父母との続柄は男とする。

3  よって、主文のとおり審判する。

(家事審判官 谷川克)

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